エストニア独立100周年の意味

エストニア独立100周年の意味

1800年代はエストニアはロシア帝国の領土でした。その数百年前はドイツの一部でした。ドイツから来ていた支配者は、ロシア帝国の領土であるにも関わらず、事実上はドイツ人の土地の所有者がエストニア国内を支配していました。1890年頃までこの特殊な環境が続きました。

1890年まではエストニア南部のタルトゥ大学の教育ではドイツ語を使っていましたが、その年より後は、ロシア帝国の支配に変わっていき、ロシア語を使うことになりました。

1857年頃からはエストニア語の新聞が発刊され、人々の認識が世の中で何が起こっているのか、多くのエストニア人が知ることとなります。そういったことで、大学の組織で「エストニアにもエストニア独自の大学を作ろう!」という活動が活発になりました。

1914年から第一次世界大戦が始まり、1917年にロシアで2月革命が起こり、これをきっかけにロシア帝国はなくなり、ソビエト連邦成立(1922年)に繋がっていきます。この革命をきっかけにエストニアも自らの国を作ろうとしました。この年の4月、エストニアは一時的な政府を作って独立をすると発表しました。1918年2月23日にパルヌ、24日にタリンで新しい議員たちは新しいエストニア政府の独立を宣言しました。

この独立日から今年の2月24日がロシア帝国からの独立100周年という意味で、今年は様々な催しを行っています。(宣言だけでしたので名実共に独立できたのはこの1年後になります)

しかしながら、1918年2月25日にドイツに占領されて、このエストニアの独立は1日であっけなく終わりました。また、11月にドイツが第一次世界大戦に敗北しエストニア領土から撤退しました。それをきっかけに、エストニア国内では、自国の軍を作り独立に向けての活動が活発になりました。ドイツが撤退した後も、ソビエト・ロシア共和国はエストニアの領土に深く攻め込んでしましたが、エストニアの独立をスウェーデン、フィンランド、イギリス、デンマーク、アメリカが支えました。1919年2月24日ソビエト連邦の軍隊はエストニアから完全に撤退となりました。

1920年2月2日はソビエト・ロシア共和国のレーニンがタルトゥに訪問し、平和条約を締結して、敗北を認めました。

エストニア人にとって、ソビエト・ロシア共和国からの独立ということがどれだけ歓喜に満ち溢れたものかということが今回独立100周年のニュースなどでも感じることができます。



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