ソ連時代のエストニア(パンとテレビ)
エストニア人の話で興味深いのは旧ソ連時代の話です。ソ連からエストニアが独立した1991年は日本はバブルの最中で、好景気に沸いていました。
ゴルバチョフ書記長が、ペレストロイカと呼ばれた改革を推進したことで、アメリカはじめ、西側諸国との冷戦が終結することなりました。今では歴史の教科書に載っているようなことが、ニュースでリアルに目にしていたので、実際のあのテレビに映っていた人々はどんなことを経験していたのかなという興味がありました。日本にいた私からすると、ソ連になかなか行くことはできなかったので、その中のことを知る人の話を聞いてみたいなと思うことはありました。
個人的な興味から、エストニア出身のエストニア侍にもソ連時代の話をたまに聞くことがあります。そこでのソ連ネタを少しずつ皆様にも共有できたらなと思います。侍はソ連時代は小学生、中学生くらいの子供でしたので、すごく深い内容は期待できませんのでご了承ください。
■ソ連時代はパン屋にパンが4種類しかない。
エストニアになって、何が変わったかといいますとパンだそうです。ソ連時代はすべての会社が国営でした。ですから、パンの材料仕入れや商品の選定、全て国の計画で決められたものでした。
侍はその当時まだ少年でしたので、パンが4種類だろうが、何種類だろうが特に不自由にも感じていなかったといいます。黒パン3種類、普通のパンは1種類でした。確かに、それしか知らなかったら、不思議にも思わないでしょうね。ただ、今と比べてあまりおいしいパンではなかったようです。今ではおいしいパン屋さんがスーパーにもあり、選ぶのに困るくらいの種類が並んでいます。
パンと食べるチーズはエストニアチーズとロシアチーズの2種類がありました。
■ソ連時代のテレビ放送のチャンネルは2つしかない。
テレビの放送局が2局しかなかったためチャンネルは2つしかありませんでした。ひとつはエストニアの番組、もうひとつはソ連のサンクトペテルブルクの放送局の番組でした。タリンはフィンランドに近かったので、普通のアンテナでもフィンランドの番組も観ることができました。
ソ連がなくなってからは、侍の家のアパートでは近くに住む人が、自作のアンテナでドイツからの衛星テレビの放送を受信して、契約した家は見られるという商売をしていました。しかし、その人がいつの間にか引っ越してしまったそうで、途中からは無料で視聴していたそうです。ですから、ドイツ語のチャンネルもあって西側の情報も得られました。
と、まずはこのふたつをご紹介いたしました。ソ連からエストニアになった日のことなどもありますので、追ってまたご紹介したいと思います。